「自受法楽」

『自受法楽』(じじゅほうらく)

 一切衆生南無妙法蓮華経と唱るより外の遊楽なきなり。経に云く「衆生所遊楽」云云。此文あに自受報楽にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給べきや。所とは一閻浮提なり。日本國は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心、依正ともに一念三千自受用身の佛にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。「現世安穏後生善処」とは是なり。ただ世間の留難来るともとりあひ給べからず。賢人、聖人も此事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。恐恐謹言。  
               日蓮 花押
健治二年丙子六月二十七日
            四條金吾殿御返事


 日蓮大聖人が55歳の時に、大信者である四條金吾(しじょうきんご)殿にあてられたお手紙である。お手紙というよりは寧ろ「自受法楽(じじゅほうらく)」について説かれた教学書というべきものである。四條金吾という方もかなりの見識学識を持たれた人物であった事がうかがえる。
 「衆生の遊楽(ゆうらく)する所」は、即ち「自受法楽」でり「現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょぜんしょ)」ということ。苦楽ともに思い合わせて法華経を信じ南無妙法蓮華経と御題目を唱えることは「自受法楽」の世界なのだ。益々の信心強盛の信力をいたすよう教え導かれております。
 災難には、二通りある。身からでた錆(さび)と、外から来る禍(わざわ)いとで、「留難(るなん)」とは、外から来る災いの事である。「とりあい給うべからず」は取り合うな、気にかけるなということである。賢人聖人といわれるような偉い人でも、外からやってくる災難は逃れられない場合がある。平凡な人と偉い人との違いは、その時その時の受け止め方の違いである。
 女房殿と酒を呑み御題目を唱えていることは、少しも動揺しないで落ち着きはらっていること。苦をば苦と悟り、楽を楽と悟ることは観念を分離して自分自身を冷静に客観視できることである。苦しみというものはこういうものだ、楽しみとはこういうものだなと、慌てもせず驚きもしないで味わう心もちである。苦しみから逃れようともがきもせず、楽を得ようと焦りも欲張りもしない。泰然自若としてありのまま受け取ってゆく、その境地が「自受法楽」にほかならないと大聖人は教えられております。
 この世の中は、どんな些細な事柄でも、道理に基づいて行われている。その道理にしっかりと身をまかせている人はくよくよと後悔をしない。良くても悪くても、そのまま受けとめることができる。自受法楽とは、天地の道理は自分で定めた約束と同じである。その約束通りに実行していくことが、自分にとっては最高なことである。そこまで徹底すると、この世の中のことは全てが満足できる。良くても悪くても結構という心持ちになる。「人事を尽くして天命を待つ」ではなく、「天命を知って人事を尽くす」という境地が「自受法楽」ということではなかろうか。
 主観にとらわれず、観念を分離して自分を客観的にみれるようにする。そうすると、心が落ち着き何時如何なることが起きても動揺しないで平常心でいられる。熱心な信仰心を持って、万事御本尊様にお任せして、自分のはからいを捨て去り、ただ一心専念に「南無妙法蓮華経」と唱えることこそが大切であり、そこにこそ法華信仰の究極の有り難さを感じ得られるのです。
 いよいよ信心強盛に御題目の修行に励みましょう。 合掌 妙源寺 住職 林 勝信

法華宗宣法山妙源寺

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